今年も「納得できない」って叫びたくなることが多い世の中。みのさんも朝からテンションが上がりっぱなし。中でも、私が納得できないのは「手相見」の方々である。
寒風吹きすさぶ夜、新年会帰りのアナタは街角でぼんやりと揺れるオレンジの光を見つける。四角いライトには、手相のイラスト。
手相見のオジサンである。たいてい、彼らはお客さんがいないときに本を読んでいる。
手相見の不思議はいくつもあるが、私が不思議に思うのは、彼らが必ず手相関連の本を読んでいることだ。勉強熱心といえばそうなのだろうし、手相の世界が深いといえばその通りなのだと思う。が、この場で手相の本を読むという行為は、なんだか「まだ私は手相見として未熟です」ということを力強くアピールする結果になってはいないだろうか。
たとえば、乗ろうとした飛行機のパイロットが「よく分かる飛行機の飛ばし方」という本を読んでいるようなものではないか。私だったら、手相の本を読んでいるような手相見はイヤだ。だからといって、ジェイコブズの「猿の手」を読んでいるのもどうかと思うが。
他にも不思議はある。
ときどき手相と人相の両方を見る人がいるが、あれもどうかと思う。たとえば手相は抜群に良い人なのに、人相を見たら死ぬほど悪かった場合、そこに矛盾は生じないのだろうか。もし手相と人相で別の結果が出るとしたら、人相と手相の両方を一人が見てはいけない。また、もし手相と人相でまったく同じ結果が出るとしたら、手相と人相の両方を見る必要はない。いずれにせよ、手相と人相の両方を見る人は、「タテ」と「ホコ」を一緒に売りに来た商人と同じではないか?
最大の不思議は、彼ら自身にある。
彼らが人生で最もよく見る手相は、自分の手相に違いない。しかし、彼らは本当に自分の手相を見て「手相見こそがオレの天職だ!」と信じて手相見になったのだと思われる。
だとしたら、寒風吹きすさぶ街角のこのポジションは、彼にとって大成功なのだろうか。寒さにかじかむ手を見つめ、働けど働けど我が暮らし楽にならず、じっと手を見て「あれ? なんかオレの居場所って違ってねえ?」って思う夜もあるのではないか。 |